ぷろふぃ〜る 一平の部屋アーカイブ
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悠久の眠りから覚め、ついに復活。

帰って来た
『一平の部屋』

そして、復活第一弾。


なんちゃって柔術ベーシスト一平、
またもや暴走。
アテネ・オリンピック
アメリカ代表柔道選手に討ち入り!!

 みなさま、こんにちは。司会はワタクシ、日本を出ること15年、市丸“平成なんて知りません。今年は昭和79年だ”一平でございます。お久しぶりで、ごぜーますだ。ああ、一平、淋しかったわ。今年(2004年)の4月に、大好評『一平の部屋』を閉鎖して以来、実に8ヶ月ほどの月日が流れてしまいました。それと言うのもですね、この、なんちゃって柔術ベーシストの一平も、『プロ・ミュージシャン』という枠に、アウトコースギリギリで入っているらしいので、お客様用に真面目なウェブサイトの一つも作った方がいいかな、と思いたってしまったからなのですよ。新しいサイトは日本の情緒にあふれた桜を背景にあしらい、やわらかな桃色の風情は、まさに『仏の一平』と呼ばれる私のおおらかな心を端的に現しております。(ちなみにアメリカ人の皆様からは『ピースフル・イッペイ』と呼ばれております)。スケジュールやリンクのページも一新して、なかなか、プロらしくなったのではないかと、自画自賛しております。 しかしながら、心機一転のウェブサイトを発足するにあたり、一つ問題がございました。それは、せっかく見栄えだけは小綺麗なサイトに作り直したものの、『一平の部屋』というノータリン丸出しのページがあっては、元も子もありません。そりゃあ、真面目なサイトに、猿が踊ってるのとか、ハロウィーンで来た子供にバックドロップをかけるとか、仕事が好きな7人の小人が過労死した、とかって書かれてあるのは、よろしくないでさあね。ですから、一平は断腸の思いで、 "Ippei's World" の一番人気の『一平の部屋』を閉鎖したのです。しかし数ヶ月後、ある事実に気づきました。英語の真面目なページには、そこそこ人は来ているのですが、日本語の方のページには、その10分の1ぐらいしか来なくなってしまったのです。つまり、日本人のほとんどは一平の部屋にしか来ていなかったのですね。こういうことなら、多少、不真面目なページが日本語のページの方にあったところで、私のビジネスには、なあーんの傷も付きません。(言ってしまえば、『一平の部屋』以外に人が私のサイトに来てないこと自体、ビジネスが成り立ってない証拠なんですが)。ま、何はともあれ、今日、めでたく、この復活の日を迎えることに、あいなったわけでございます。
 これは、ちょっと前の話になるのですが、この一連の出来事がきっかけになって、私のライフスタイルが変わってしまったほどの大事件だったので、ここに書いておきましょう。ああ、あれは忘れもしない、6月も半ばを過ぎた頃でございました。柔術の大親友にして大先輩のタダシさんが、ある噂を聞きつけてきました。
「一平さん、
ボストンの郊外に
アテネ五輪に出場する選手が
2人もいる柔道道場が
あるらしいんですよ」
 ウフ、ウフフフフフ、とタダシさんの無気味なほほ笑みが、体中から聞こえてきます。顔をほころばせ、まるで、誕生日に新しいオモチャを買ってもらえることを約束された子供のようです。「相手はオリンピアンでっせ!ボコボコにされまっせ!」という私の声は、彼には遠く届いていません。彼はその日から恋する乙女のように、心ここにあらず、という感じで、ペドロ道場に行く日を夢見ていたことでしょう。嗚呼、柔術に心を奪われた者の哀しさ、強い奴とやりたくって、仕方がないのですね。で、どーせ私もまた付き合わされるのですね。こうなってしまっては、やむを得ません。男一平、オリンピアン2人と、刺し違える腹ぁ決めやしたぜ。
 数日後、私は颯爽とペドロ道場の門を、蹴り破らんがばかりに押し入り、そして「一番強い奴を出さんかい!」とドスを利かせて一喝し、オリンピアンをブレーンバスターでしとめる勢いで、そこにいる門下生全員にガンを飛ばしながら畳の上に上がり、道場の中央で仁王立ちになりました…………などと、臆病風吹かれ野郎の一平ができる訳もなく、なるべく強そうで体がデカくて顔が怖い人たちと目を合わさないように、コソコソと道場の敷居をまたぎました。ああ、こういう怖そうな人たちがウチの道場にいないで良かった。オリンピアンの2人のジミー先生とアレックス先生も来ていて、初日から乱取りの相手をしてくれました。2人とも、化け物のような強さでしたよ。けっこうマジモードでテイクダウンを取りに行ったのですが、全部潰されてしまい、しまいには『一平スペシャル』(とにかく相手のどこかを、ひっつかんで、無理矢理投げようとして、わざと失敗して、ドサクサにまぎれて技に入りやすい場所をつかみながら、寝技に移るという姑息な技)も通用せず、柔道ではあまり見ない、サンボや柔術の反則ギリギリの技も入れて攻め込んだのですが、私程度の考えてる事は、もうお釈迦様が手の上の孫悟空を扱うが如く、全てお見通しのようで、私は右へ左へと投げられっぱなしでした。そして最後に私もヘバッていて、頭が下がっていたところへ、ジミー先生の巴投げでした。まさに卓越した切れ味の巴です。くー、悔しいが、素晴らしい。もう一度投げてくれ、と言いたくなるような巴投げでした。
 それから週に1回ぐらい、ペドロ道場に出稽古に行くようになりました。ま、こと格闘技に関しては『習うより慣れろ』です。強い人と組手をしてるだけで、いつの間にか自分も強くなってしまってるものなのです。ふむ、考えるに、音楽の世界と同様なんですな。
 
日本とオーストラリアの友人たちへ

前略
 
 友人たちよ、喜んで下さい。一平は、雨が降ろうが槍が降ろうが、絶対に作曲家になってやると心に決め、オーストラリアのド田舎で、ホストのおっかさんから「アメリカは人殺しだらけで怖い所だから、気をつけるんだよ」と泣きつかれながら見送られ、遠く離れたアメリカのボストンへと上京し、バークリー音楽院という学費がクソ高い音大のジャズ作曲科で2年間も、それこそ朝から晩まで、血を吐く思いで、音楽理論を学び、自分の身長を軽く超える学術書を読みあさり、雨ニモ負ケズ、風ニモ負ケズと、ピアノの前で頭をかきむしりながら作曲を続け、教授たちや学友達に『なんじゃ、この訳の分からんアバンギャルドの曲は!?』とけなされ笑われても、それでも歯を食いしばってこの道にしがみつき、卒業してからも肉体労働で細々と今日のパンとコーヒーのお金を稼ぎつつ、そんな食うや食わずの有り様でも音楽家になるのだと心に誓い、来る日も来る日も一に音楽、二に音楽、三四がなくて、五に音楽、………そしてついに………ついに一平は、オリンピックのアメリカ代表の柔道選手と一本背負いの練習ができるところまで、到達しました。一平は人生に勝ったことを、いま、実感しました。市丸一平31歳、感無量。

 
 で、その道場に足を運ぶようになって一月も経った頃、事件は起こりました。その日もタダシさんと一緒に出稽古に行き、寝技の乱取りをしていました。私の相手は道場生で体重は20キロぐらい上の黒帯で、タダシさんの相手はジミー先生だったと思います。私はタダシさんの冥福を祈り、手を合わせてから、乱取りを始めました。柔道のルールだと、柔術と違い、寝てからせいぜい5秒ぐらいで技に入らないと、審判から『待て』がかかって、せっかく寝技でいい体勢にいても、立ち上がらせられて、仕切り直しになってしまいます(柔術のルールだと、『待て』はありません)。ですから、柔道選手は寝技では、死にもの狂いで攻めるようにトレーニングしています。ああ、いま思えば、この時、私の心に油断があったのでしょうか。乱取り開始直後、私は、上に乗って来た相手の腰を足でコントロールして、隙を見て攻撃しようかな、などと悠長に柔術の乱取りのように構えていたら、5秒以内に押さえ込まねばならない相手の柔道家は、己の全体重を使って無理矢理、割って入ろうとしてきて、あわてて相手の腰を足で押し返して逃げようとしたところ、相手がコケてしまって、私の右足首の上に思いっきり落ちてきました。私の耳に『ペキッ』と乾いた小枝が折れるような音が届くが早いか、私は今まで味わった事のないような激痛に襲われました。神経も一緒にやってしまったのか、あまりの痛みに声もノドから出てこず、吐きそうになったほどです。後日、病院での診断結果は、右足首じん帯損傷。この一瞬に起こった怪我によって、一平は松葉づえと、また痛み止めの生活を一ヶ月間余儀なくされ、柔術の練習からは半年以上も遠のく事になってしまいました。
 足首のじん帯を痛めてしまった私は、もうステージで踊る事ができません。そう、これで一平はバレリーナになる夢を、一生、断たれてしまったのです。
楽しかった思い出
在りし日の一平
 (後日談:アテネ・オリンピックに出場したジミー・ペドロ先生は、みごと、73キロ級で銅メダルを取ってしまいました。そりゃ、勝てねーっつーの。ジミー先生、おめでとうございます)
(12/29/2004)